篠山焼
Sasayama ware

今村静斎は、本名を静治といい、父源太郎と篠山町西町において米穀商を営んでいた。
 静斎はこの篠山地方に丹波焼、王寺山焼がやかれていたことに深い興味をいだき陶工を志して、明治四十年二十一歳の時、篠山出身の画家平尾竹霞の世話で、京都陶器試験所に入って研究、また高橋道八に師事しました。

 三年間の修行を積んで明治四十二年に帰郷、王地山の旧窯を、発掘して自宅に築窯し、篠山焼の名で大正二年位初釜を出しました。

 古丹波や王地山焼に使われた統治法の土や陶石を使い、作品は王地山焼、高麗焼等に手法を取り入れた茶陶器が多数をしめました。

一代で篠山焼が途絶えるのを憂いた初代静斎の父源太郎は六十六歳の老齢であったが自ら二代静斎を名乗り、篠山焼を継承したが、その作品は丹波焼系統のものとなり、初代とは全く作風を異にしました。その後大阪、東京で個展を開いたが昭和十六年東京での個展の開催中に病に倒れ逝去しました。

 篠山焼はわずか二十年という短い期間、焼かれただけで継承者がなく途絶えてしまいました。

昭和59年開催 篠山町立篠山歴史美術館特別室夏季展 篠山焼今村静斎展パンフレットより抜粋